CH-47機長昇格と那覇勤務への転勤命令
春日基地に転勤し、CH-47Jとしての任務のやり方、そして空輸として対外調整などを学び、周囲のご尽力を賜りながら訓練と空輸任務を実施した。
同じ回転翼でも任務の種類が異なるため、どちらが難しいとは言えず、どちらも難しかった。
例えるならば、「大型バスの運転手」と「レーシングドライバー」はどちらが難しいか?
みたいなもので、やることが違うのだから、どちらもそれぞれの難しさがあり、どちらがということは測ることはできないことをご理解いただきたい。
春日において無事、機長資格と整備試験飛行操縦士資格を取得し、任務と訓練飛行に邁進した。
そんなある日に松島基地へ出張する機会を得た。
私が知っている松島基地(東松島市)の姿とは違った。
マンホールは地面から盛り上がり、記憶の中ではそこにあったはずの建物がなく、私の知人も多く亡くなった。
その土地を知らない人がそこへ行っても、更地になった土地を見れば、自然の脅威を感じるとは思うが、震災前の姿を知っている私としては、更に思うところが大きかった。
私の知っていた町並みとは全く変わっていた。
そのような思いを持ちつつ、隊長から言われたのが「那覇への転勤」という命令であった。
私自身が前任地が那覇であり、とても思い入れのある土地であったため、新天地での任務邁進を新たな気持ちとした。
2度目の那覇勤務と熊本地震
那覇勤務をしていく中で、資格としては編隊長と教官資格を取得し、地上職においても役職に就かせてもらった。
そのような勤務中に発生したのは熊本大地震であり、大分にも大きな被害を与えたことは皆さんもご承知であると思う。
前回の震災、つまり東日本大震災では現場に出れなかった。その分なんとかして被災地に直接支援をしたいという気持ちは強かった。
その気持ちを汲み取っていただき、春日への救援物資を空輸させていただいた。
本震災については、民生力が早く復旧したため航空自衛隊の空輸というよりも、陸上自衛隊の地上輸送能力が大いに発揮された。
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