組織化される救援活動
宿舎で仮眠を取った後、再び出勤をする。
被害の状況は刻一刻と入ってくる。定期整備していた救難団が保有する
救難ヘリコプター(UH-60J)
捜索機(U-125A)
輸送ヘリコプター(CH-47J)
整備員が徹夜の整備作業をして航空機をどんどん仕上げてくる。
航空機がなければ、航空救難団の組織力が発揮されない。
被害状況が次第に明らかになってくる。
どこに被災者を搬送させるのか、余震が続く中で情報収集を行いながら、一人でも多くの人命を救おうと皆が一生懸命であった。
状況が次第に明らかになるたびに、福島原発の状況もモニターをしながら
- どこに航空機を終結させるのが良いのか
- 後方整備基地をどこの基地にするのが良いのか
- 全国の救難・空輸態勢を保持しつつ、どうやって人員を集めるのか
など様々な会議があった。
夕刻に政府の対策会議が開かれ、その後に防衛省の会議、その後に航空自衛隊の会議、それぞれの会議で方針を示しつつ、深夜2時くらいであったと思うが、航空救難団の航空機の割り当てを5時くらいまでに詰めて各部隊へ指示していたと思う。
休める人は、椅子やソファーの上で体を一瞬でも休めつつ「やるときはやる」という意気込みであった。
自衛隊の活動が多くの人命を助けることに繋がったが、そのほかにも米軍の力というものも多きものがあった。
自衛隊については「演習」という大規模な訓練が実施されるが、震災当時はまさにそのような感じであった。
この時に本番は訓練以上のものは出ないということを痛感させられた。
これは自慢ではないが、石巻にある日赤病院にヘリポートがあり震災時に活用された。
そのヘリポートを最初に訓練調整をして訓練を実施したのは私であり、その直後の船員の負傷により災害派遣で石巻日赤病院に着陸させ搬送したこともあった。
その経験がなければ、日赤職員についてもヘリコプターの受け入れはできなかったであろうと推察される。
日赤職員も一緒に訓練に参加してくれたことに深い敬意を表したいと思う。
機種転換過程の再開と福岡への転勤
4月がすぎてくると、自衛隊の活動も規模を縮小してくる。
自衛隊については、災害派遣の3要素として
- 緊急性
- 公共性
- 非代替性
というものがあって、初めて受理される。
「非代替性」というところが、一つのキーポイントとなる。
例えば、誰かが海で遭難したとする。そこで海上保安庁のヘリコプターが捜索救助を行う。
自衛隊も能力的には出動ができるのであるが、そこは「非代替性」という点で出動はできない。
東日本大震災においては、4月に入ると民生ボランティアの方々や民間物流が復活してきたため、自衛隊は前線から引かなければならなかった。
4月に機種転換過程が再開され無事終了し、私は那覇基地に戻った。
そして次の月の5月に福岡(春日基地)へ転勤した。