訓練終了後の指揮所
コールオフ(基地へ帰投命令)をかけられ、陸上部を入念に偵察しながら、基地へ辿り着いた。
上空からは被害状況等把握できなかったため、どれほどの地震か見当もつかずランプ地区(機体を駐機する場所)へ行きエンジンを停止させた。
エンジン停止前に指揮所から「再発進準備を実施せよ」との指令を受けたため、教官であった飛行班長(当時)は一足先へ指揮所へ。
再発進準備、とは?
着陸後に整備員が「毎飛行後点検」を実施し、パイロットが再び離陸前点検を実施してすぐに発進できる状態にする作業
私は整備員に「揺れはすごかった?」と聞くと「揺れました」と聞き、周辺施設については損傷もしていなかったので、心配することなく飛行指揮所へ行った。
指揮所では慌ただしく「地震偵察の指令に基づく発進準備」をいくつかのクルーが行なっていた。
「〜その1〜」で述べたように以前、私は松島基地に勤務していた。
当然多くの松島基地に所在する隊員を知っていたし、同じく一般人の方の知り合いも多かった。
電話をしようとしても電話回線がパンクしており、データ通信でさえままならない状態であった。
そのため、宮城県に住む友人や隊員と連絡を当初は取ることはできなかった。
ブリーフィングを終えたクルーが、つい先ほどまで私が訓練をしていた機体へ走って向かっていく。
地震偵察の為に離陸をするためであった。
エンジン始動をする前にコントロール系統の点検や無線機のチェックをする。
ちょうどその時「テレビに津波が出てる。なんかやばいぞ!」と誰かが言った。
指揮所内にいた皆が声を失った。
電話の着信音と航空機の離陸前における無線機チェックの通話の音しかしていなかった光景が今でも脳裏に焼き付いている。
私は、その当時は救難ヘリコプター(UH-60J)の機長ではあったが、輸送ヘリ(CH-47J)の学生であったため、輸送ヘリコプターでは任務には飛んでいけない。
入間基地では輸送ヘリコプターしかないために、任務で飛んでいけないパイロットであった。
航空救難団司令部に臨時勤務
当時の入間ヘリコプター空輸隊長及び飛行班長から「本日は金曜日でこのような状況である。
おそらく長丁場になるから転換課程は仕切り直しになると思っておいてくれ。
土日も出勤しても資格がないからできることがない。今日は帰れ」と言われました。
私は何かできることはないかと同じ入間基地に所在する航空救難団司令部指揮所に様子を見に行きました。
航空救難団司令部指揮所、とは?
全国にある10個の救難隊・4個のヘリ空隊・救難整備群・救難教育隊を束ねる部署
そこで、普段から可愛がってもらっていた「O崎先輩」に会い「ちょうどいいところにイイ奴がいた!救難もヘリ空もわかる男!お前、今から指揮所入れよ」周りの幹部の方も「今、人手が足りないからよろしくな」ということで、そこから救難団司令部指揮所に入ることになりました。
「今の行動方針(救難団司令の意図)は?」と聞くと、
「状況が把握できないから、細かい指示は出さない!各隊長は最大限の能力を発揮して全力で救助を行え!足りないものは言え!責任は全部俺が取る!今やらないで、自衛隊がいつ力を発揮するんだ!今こそ真価が国民に問われている、しかしながら安全には確実に留意せよ!」
確かこのような指示だった気がします。
「責任は全部俺がとる」初めて聞いた言葉でしたし、あの時は隷下部隊長を信じる姿を感じさせた救難団司令は指揮官のあり方を見せられた気がしました。
その日は、航空救難団所属の隊員は、長丁場になると見込んで入れ替わり立ち代り、自宅に服や食事を摂ってまた出勤する。その間に手薄にならないように私が調整などをやっておりました。
基本的に航空機を使用した捜索救助は、日没後は二次遭難や障害物の視認性が悪いためにできません。
夜の時間帯は、上級司令部から入手する情報や指令を元に作戦分析を実施して、どの航空機をどのように使い任務を達成するのか議論を行います。
気づけば2時か3時だった気がします。
宿舎に一度仮眠をしに戻りましたが、その途中で宮城の友人に電話はやはり繋がりませんでした。