はじめに
前回は、3.11当日の動きでした。そのあとの事を少し書きたいと思います。
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3.12以降
とりあえず、発災当日司令部を後にしてすごいソワソワしていたと思います。当然ながら、電話は通じずにSNSがそこまで発達していなくて、メールで連絡をとれるかとれないかでありましたが、当時はNTTの携帯を使ってましたので、「ドットの荒い画面」にフクロウが出てきて「ただいま、混みあっています」のような表示がずっとあった気がします。
松島基地に勤務していた経験もあったので、知り合いの隊員は大丈夫だろうか、近所の人は大丈夫だろうか・・と考えていました。
夜があけて、教育入校している入間ヘリコプター空輸隊には、司令部に行くことを一言申し上げ、CH-47Jのパイロットとして何もできないため司令部で活動することにしました。
朝から会議電話(たくさんの人がグループ通話できる装置)があり、上級司令部と通話する用と隷下部隊(9個救難隊(松島救難隊除く救難隊)、4個ヘリコプター空輸隊)と回線をつないでいたと思います。
細部の中身は言えませんが様々なことがありましたし、いろいろな情報が入ってきました。
「〇〇小学校へ行け」と言われても、津波でがれき等が流れてきており元の地形(地図)と判読が難しいこと近くに高校や中学校がある場合は、目的地の学校を判定するのが難しかったと聞きました。
その後このような「ヘリサイン」が増えてきました。
あと、一斉に航空救難団所属航空機が飛行するので、その航空機が墜落等しないようにモニターもしなければならず、一斉に20機以上が在空(飛行中)であり、離陸する航空機をモニターするのも大変でありました。
その管理要領は、日々最高錯誤し、夜な夜な表示を工夫していました。
また、航空機はある一定以上の飛行時間を行うと、ある程度機体を分解して点検を行うこととなっています。そのため、航空機の取り回し(作戦の付与・飛行時間がある航空機の最前線への配置換え)の計画を調整したりするのが大変でした。
本当に「有事」を意識するくらいでした。
本当の有事というものは、想定外の連続である。「救難最後の砦」と言われ多少なりとも自信があったのですが、自分の力の小ささを痛感させられました。
その中でも米軍については、活動がすごかったです。
有事の際に飛行場を作り上げることができる能力を持っている部隊が航空拠点を作りました。
C-130(?)が不整地着陸し、機体から4駆のバギーみたいなもので偵察を行い、空港機能をすぐに回復させました。彼らの機動力と展開については有事で培ったものがあります。
また、当時の菅総理大臣の視察などについても様々な影響がありました。
総理大臣は自衛隊の最高指揮官ですから、その余波は少なからずともありました。
3.12以降は
日の出とともに航空機が活動開始
日中は航空機のモニターと、航空機の整備計画などの後方部隊(整備)との計画のすり合わせ、救出情報の収集、救助成果の収集
日没後は、閣僚会議の救助方針を受け、防衛省の会議、航空自衛隊と航空支援集団の会議でした。結果的に会議が終わるのが、深夜12時くらであったと思います。
そこから、救助計画を日の出までに部隊に示せるように作っていたと思います。
睡眠時間は、みんな2時間くらいだったような気がしますが「72時間」を意識して頑張っていました。
今、思うと緊張した糸の中で司令部勤務をしていたことを思い出すと、貴重な経験であったと思いますし、気持ちの持ちようでは、肉体が必要以上に稼働してくれることも分かりました。
私たちは、残されたものとして同じような災害が起きたとしても、市民の一人一人を助かるようにしなければならないと思います。
~完~
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